メルプロジェクトの成果発表を聴きに、久々に東大・本郷キャンパスへ。
「メディア(≧マス媒体)が社会を再構成している」とか
「大文字の政治と小文字の政治」とか久々に言葉を耳にする。
また、20代には聞いてもちんぷんかんぷんだった話の本質が
わかるようになっていたことに気が付く。
登壇中のある先生が、大学院生のゼミでトレーニングとして
行っていることがあるという。
それは、ゼミの担当教官の前で担当教諭の論文などを批判することだ。
「知識はもういい。本やインターネットでいくらでも手に入れることができる。
批判力を身につけ、方法論を構築することが重要だ」というのが、この趣旨だ。
これに関連してこうした意見が出た。
「そのゼミを、何人で、どのような部屋でどのような人と、
どんな照明で、といった、トリビアルなことを考えることが重要」
確かに、戦術も異なる。知識が多ければ勝てるとは言い切れない。
「トリビアル」という言葉の選択に、「あっ、先生らしいな」、と感じた。
さらに続けて出た比喩は、僕にとっては爽快だった。
「これまでmellプロジェクトは、5年間で、政治に関わるための
(この場合は大文字の政治?)心体知、メディアを批判するための下半身を、
下半身だと、何だか卑猥な感じがするのですが、たたかうための下準備をしてきた」と。
これを言及した流れでの発言ではなかったのだが、
登壇者で「コミュニケーション・デザインセンター」という冠が
ついたところからいらした方が次のような趣のことをいう。
「顔と顔を合わせれば、伝わる『こと』もある」という意識で、センターにいる人は、
コミュニケーションの限界を見極めている人たちの場」であるという。
僕なりに理解すれば、伝わることは、必ずしも「all or nothing」ではないのだ。
先の比喩を、こう文字に落としてしまうと誤解を生みかねないのだが、
「あの人が、あの身振り手振りで、あの声のトーンで、ある程度面識のある
audienceの前で話しているから僕は卑猥さを感じず、むしろ爽快だと感じた」
のであって、こうテキストに落としたことで、
その本意を汲み取られない恐れがあったとすれば不本意なのだが、
(ネットの世界だと字面のみの理解で、揶揄を入れたりされることが少なくない)
でもきっちりとこの記録は残しておきたいと思った。
そんな僕の研究生時代の恩師の一人であり、
humanityあふれる先生に近況報告をして会場を後にした。
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