「カーニバル化する社会」(講談社現代新書)を買いました。
(実際に買ったのは先週の今頃)
これを一冊読むと、charlie(当時使っていた愛称?。今も使っているかも)が院ゼミ時代に言っていたことが言語化されていて、思考の具現化ができない僕と比べ、圧倒的に秀でてるな、ということを再確認。
とはいえ、なぜ手に止まったのかと言えば、卒制がらみ。
「自己」を作品に表す手がかりとなっていると感じたから。
その理由は、というと・・・まだ言語化できない!。
(そういえばTSUTAYAで小田和正の自己ベスト借りて「言葉にできない」聴きました。あとは、これも言葉がらみで「between the word & the haartー言葉と心ー」〜
渡辺篤史建もの探訪〜のテーマ曲)
強いて言うと、彼がこの本で指摘している「自己」を過去の10年(=20代)、身をもって経験してきたからなのかもしれない。
その点は、彼に感謝しなければならないと思った。
僕が、卒業論文で形に仕切れなかった1990年代後半の個人情報誌「じゃま〜る」の創刊やオーディションバラエティー「ASAYAN」で、その素性を隠
す・恥じることなく見せることを臆さないなど、なぜ個人がメディアに出たがるのか、見せたがるのかといった題材を彼にしたことを思い出した。
学部の時の指導教官に、将来漠然と「目立ちたい」とゼミ面接の時に言ったことも今となっては引っかかる。
また、本文最後のp.168に書かれていたことは彼らしいと思った。
「いかにあるべきか」の前に、「いかにしてあるのか」を徹底して問う、というのが、社会学という学問のあり方だとするならば、現在の私たちは誰も「いかにあるべきか」を語りうるほどに、現在についての知識を蓄積していると私は考えていない。である以上、もうしばらくは「いかにしてあるのか」について問い続ける必要があるといえよう。社会的な危機が様々な方面から指摘され、「べき論」の溢れる現在だからこそ、そうしたモラトリアムこそが必要とされているのではないか。
さて。キーワードの拾い出しは終わった。
この時点で10年前の小室哲哉なら「もう、曲は完成したんです」と言っていただろう。でも、僕にはあと2ヶ月弱かけて完成させていきます。
【キーワード】(卒制テーマ以外も含む)
自分探し世代の憂鬱(p.34)
「やりたいこと」に「できること」が追いつかずに、いつまでたってもやりたいことにを仕事にできない
日本労働研究機構のフリーターへのヒアリング調査のデータ分析
フリーターたちが語る「やりたいこと」(p.39・孫引き)
(1)「やりたいこと」ならやめずに続けられる
(2)「やりたいこと」は明確でなくてよい
(3)「やりたいこと」は必ず発見できる
ハイ・テンションな自己啓発→今の俺!?/社会的には「自己分析」の台頭
「ハイ・テンションな自己啓発」という言葉は、社会学者・渋谷望が用いている。
第2章・ずっと自分を見張っていたい
身体の喪失(p.71-72)→この部分は卒制のコンセプトのコア部分と思われるので、
別コラムで全文引用する。
p.95 データベースと個人の欲望との往復運動(図2)
p.120- 第3章 2 「自己への嗜癖」とデータベース
データベース化する対人関係/<繋がりうること>としての友達
→「携帯電話の電話帳」や「SNSの存在(vsアメリカでは「コネとツテ」を形成するツール:ソーシャル・キャピタル)」
第4章 1カーニバル化と再帰性(p.136)
「最終的に目指すべき目標や理念を欠いた現代において、監視社会のデータベースとの相互審問の中から、その都度その都度、自己の欲望すべきものが立ち上がってくるというメカニズム」が生じていることが第1・2章で論じられている。
そして、
「こうした自己とデータベースとの往復運動の結果生じるのが、社会学的には「個人化」と呼ばれる、自己に対する統合的な反省の視点が欠如した(ー中略ー)自己モデルを生きる若者たち」を第3章で確認している。
この若者達の内的原理を説こうというのが第4章である。
この「データベース」への問い合わせが、本書主題の「自己目的化する『カーニバル化するイベント』」につながっている。
最近のコメント